慰安婦制度に関係する明白な事実

慰安婦制度は日本が1930年代に中国への軍事的拡張政策を始めたときに出現した。この制度は1941年に日本が米国を攻撃し、日本軍が東南アジアおよび太平洋西南地域に進出したときに拡大した。対象となる女性は「慰安婦」と呼ばれていた。多くの人は慰安婦の数を5万〜20万人の間で見積もっている。彼女らの大部分は朝鮮人であった。残りの大部分は中国人、台湾人、フィリピン人、オランダ人、インドネシア人で構成されていた。

慰安婦制度に関する情報は第二次世界大戦の後、定期的に流れていたが1980年代および1990年代の初めになるまでは日本において主要な著作が現れなかった。その年代になるまでは日本に占領された国の政府や市民が慰安婦制度について公に議論することはあまりなかった。1990年代には慰安婦問題は日本と隣国の間での日本の占領政策に関する論争の一つとなった。日本政府と市民グループと日本に占領された国々の間の論争では以下のような点が問題となった。日本は軍と政府が慰安婦制度を悪用した責任を完全に認めたか。日本は公式の謝罪を元慰安婦に対して行ったのか。日本は金銭的な補償をするべきなのか。日本の教科書は第二次世界大戦の章で慰安婦制度を記述するべきなのか。

慰安婦制度の運用に関して1990年代と2000年代に明白な事実が浮かび上がってきた。主なものは以下の通りである。

  • 歴史研究家吉見義明博士は1992年に自衛隊図書館で1930年代終わりの占領された中国における日本軍の慰安婦制度に関する文書を発見した。吉見博士はその文書を日本の主要紙の一つである朝日新聞に渡し、朝日新聞は1992年1月11日に記事を載せた。吉見は1995年に『従軍慰安婦』という本を書いた。
  • 台湾 Academia Sinica の歴史教授である Chu Te-lan は1990年代に文書を発見した。その文書は慰安婦制度への日本軍、台湾総督府、台湾開発会社(Taiwan Development Company)の間の関係を記述している。
  • アメリカ戦時情報局は1944年10月1日のレポートで連合軍が北ビルマのミッチーナーを日本から奪還した後に1944年8月にミッチーナーで見付かった20人の朝鮮人慰安婦に対する聞き取り調査について報告している。(この報告書はアメリ国立公文書館にある。)
  • 朝鮮にいたアメリカ人の伝道師 Horace H. Underwood が1942年8月に日本によって送還された後にアメリカ政府に対して朝鮮における慰安婦の採用について報告した。(この報告書はアメリ国立公文書館にある。)
  • アメリカ戦略局(OSS)による1945年3月6日の報告書では中国の昆明で行った23人の朝鮮人慰安婦への聞き取り調査がある。この女性たちは仕事をしていた日本軍部隊から逃げ出し、1944年9月に中国国境に到達した。(この報告書はアメリ国立公文書館にある。)
  • 1992年の南朝鮮外務省の報告書では朝鮮での慰安婦制度についての日本軍の文書が引用されている。
  • オランダ領東インドでのオランダ人女性の強制売春に関するオランダ政府の研究報告が1994年に公表された。またオランダ公文書館の文書AS5200にはオランダ人女性への戦争犯罪に関する日本人容疑者への尋問の記録、オランダ人とユーラシア人慰安婦の証言、日本軍によってジャワに設立されたオランダ人女性収容キャンプの運営者の証言および収容されていた女性の証言が含まれている。AS5200には他にも1947年と1948年にオランダ軍によって開催された慰安婦に関する戦争犯罪法廷の裁判記録が含まれている。
  • 1992年から1993年に日本政府によって行われた日本の省庁および政府機関の文書の調査、元慰安婦、元日本兵への聞き取り調査、日本占領時代の朝鮮政府の官僚への聞き取り調査、慰安所の運営者への聞き取り調査。この報告書は河野談話の基礎になった。
  • 数百人の朝鮮人、中国人、台湾人、フィリピン人、インドネシア人、オランダ人女性の証言。これらの証言の多くは2002年に出版された『Japan's Comfort Women』(タナカ・ユキ著)に記述されている。この本は400人を超える女性への聞き取り調査への言及がある。

これらの文書と報告書は慰安婦制度に関して日本国内および日本と他の数カ国との間で議論されている3つの問題についての情報を提供している。

(1) 慰安婦制度を作った日本軍と政府の関与の度合い。日本政府と軍が直接慰安婦制度を作ったことは明らかである。1992年から1993年の日本政府の報告書ではそれぞれの地域で軍の役人が慰安所の設立の過程に携わったことを認めている。軍は慰安所の創設を助け、その運営を規制した。Chu Te-lanによる台湾の文書によれば日本の中国侵略を支援する目的で台湾総督府の命令で台湾開発会社からの資金提供が行われていた。1939年まで台湾総督府は台湾開発会社に指示して台湾人慰安婦を雇用させ、中国の海南島慰安婦を送っている。海南島では日本軍は台湾開発会社の全活動を監督しており、台湾開発会社の活動には62箇所の慰安所の設立が含まれている。吉見の文書では中国にいた日本軍部隊は1937年の侵攻に伴って北支、中支に慰安所を設立していった経過が明らかになった。その文書の一つである1937年7月に北支方面軍の司令官から出された命令には方面軍に所属する各部隊に対して「できるだけ早く性的慰安の施設を整えるのが非常に重要である」と記されている。1992年の南朝鮮外務省のレポートでは朝鮮にいた日本軍が慰安所を設立するために同様の命令を受け取ったことを報告している。

(2) 日本軍は慰安婦の雇用と移送に関与したのか、また日本兵に性行為を提供する「慰安所」の管理に関与したのか。日本軍がこの制度の運用のあらゆる段階に関与していた証拠は明らかである。日本の現地政府はしばしば台湾開発会社のような私企業と慰安婦の雇用に関して契約を結んでいた証拠がある。ビルマのミッチーナーで米軍の聞き取り調査を受けた朝鮮人慰安婦はサインした雇用契約に彼女らが日本軍の規制に従うこととなっていたと述べている。吉見の文書の一つである1938年3月4日付けの「軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件」という題の文書では日本の陸軍大臣から北支方面軍に対して「募集等ニ当リテハ派遣軍ニ於テ統制シ実施ニ当リテハ関係地方ノ憲兵及警察当局 トノ連繋ヲ密ニ以テ軍ノ威信保持上並ニ社会問題上遺漏ナキ様配慮相成度依命通牒ス」と命じている。特記すべきなのはこの文書には陸軍省次官梅津美治郎の印があった。梅津は後に陸軍参謀総長となり第二次世界大戦の最後の年には戦時内閣で陸軍の代表をしていた。梅津は1945年9月2日に戦艦ミズーリ上で日本軍の降伏文書にサインをした。他の吉見の文書では日本軍が北支に設立した慰安所が日本軍現地司令官の監督下にあったことを記載している。多くの地方で慰安所の運営がしばしば「おやじ」と呼ばれる民間人によって運営されていた明らかな証拠がある。しかし軍の現地司令官は慰安所の運営に関して営業時間、上官と下士官が顔を合わせないで済むような時間の振り分け、憲兵の駐在、健康診断と治療に関する細かな規制を課していた。ミッチーナーの朝鮮人女性は米軍士官の質問に対してそのような規制について述べていた。1993年の日本政府のレポートでは慰安所の運営についてこのような点に重点が置かれて記述されている。

(3) 慰安所に勤めるようになった女性は自発的に来たのか、そうでないのか。この問題は女性を雇用するのに使われたやり方および慰安所における女性の地位に関連がある。安倍首相の声明および H.Res.121 ではこの点を描写するのに「強制 coerce/coercion」という言葉が使われている。The American College Dictionary では強制 coerce/coercion を「力ずくで何かを強いること」または「そのような制約」と定義している。400人以上の証言を扱ったタナカ・ユキの『Japan's Comfort Women』では200人近い女性が日本軍または憲兵または軍の使者による強制連行について述べていた。これはとりわけフィリピン人、中国人、オランダ人女性に対しても同様である。1993年の日本政府のレポートでも「業者は多くの場合女性に対して甘言や脅迫を用い、意思に反して雇用した」と書かれている。

フィリピン人、中国人女性の証言や日本軍の文書でも中国やフィリピンで日本兵による強姦が広がっていたことが分かっている。上で引用した北支方面軍の参謀総長からの命令でも「多くの場所で日本兵による強姦が広がっている」ことについて言及がある。強姦は明らかに日本軍と中国軍あるいは日本軍と1943年から1944年にかけて出現したフィリピンゲリラとの間に大規模な戦闘があった地帯で数多く発生していた。現地の日本軍部隊はフィリピン人、中国人の少女を誘拐し、数週間から数ヶ月に渡って監禁し、強姦を繰り返したことが報告されていた。オランダ政府の文書にも1942年に日本軍がオランダ領東インドに侵攻した直後に日本兵による強姦の被害を訴える数多くのオランダ人女性の証言が記録されている。

オランダ公文書館の文書AS5200や1994年の「日本占領下蘭領東インドにおけるオランダ人女性に関する強制売春に関するオランダ政府所蔵文書調査報告」に記載されているようにオランダ政府の戦争犯罪法廷でも強制的な徴用は罪を問われ、記録されている。これらの文書では日本軍が強制的にオランダ人女性を日本軍の監督の下で収容キャンプから連れ去り(時折キャンプの収容者の抵抗にあっている)慰安婦として働くよう強制したことが記録されている。多くの日本軍士官が戦争犯罪法廷でオランダ人女性に対する罪で有罪を宣告された。これらの文書はユーラシア人やインドネシア人の強制徴用についても記録されている。

証拠によれば軍または軍と契約した売春斡旋業者は嘘を付くのが一般的な慣行であったと分かっている。ミッチーナーの朝鮮人女性は自分達やビルマにいるほかの朝鮮人女性は負傷した日本人部隊を看護するためにシンガポールの病院で働くことになると業者が言ったと米軍の担当者に対して語った。中国の昆明にいた韓国人女性の多くは、自分達と他の300人の韓国人慰安婦シンガポールにある日本の工場で働くという朝鮮の新聞広告を見て就職したと証言している。昆明OSSの報告書では「23人の女性はすべて明らかに強制と嘘の募集によって『慰安婦』になった」と結論付けている。元慰安婦による多くの他の説明でも業者が雇用の際に嘘の説明を行ったことが報告されている。南朝鮮外務省の報告でも日本人と現地の業者が嘘を付くのが常態であったと述べている。1941年12月7日の日本軍による真珠湾攻撃まで朝鮮にいたアメリカ人伝道師Horace H. Underwood からの報告がアメリカ戦時情報局から公表されている。Underwoodによれば日本人は「さまざまな手段によって多くの朝鮮人の少女を勧誘し、満州と中国の売春宿に送った。」そしてこのことは朝鮮人の「尽きることのない恨みの源泉」であった。業者は日本の認可を受けた金融業者に多額の負債のある、少女のいる家庭を狙い、説得と脅迫を組み合わせて女性を獲得したことが分かっている。ミッチーナーの朝鮮人女性は病院でボランティアで働くことは家族の借金を帳消しにする一つの方法であると業者が言ったと証言している。タナカ・ユキの本で証言している女性の中で強制連行ではなかった多くの女性は同様の嘘の話を業者からされたと語った。

ミッチーナーの朝鮮人女性の証言や他の証言では一度慰安所に女性が到着すると日本軍が解放するまでか、帰宅を許可するまでは労働しなければならなかったことははっきりしている。その朝鮮人女性はミッチーナーで1943年に軍が何人かの朝鮮人女性を解放したと証言している。しかしこの証言および他の多くの女性の説明では多くの女性は第二次世界大戦の間慰安所にいたことを示している。昆明にいた朝鮮人女性達の話では日本軍が朝鮮への帰還を許可しなかったため彼女らは日中戦争の最前線を横切る危険なコースを通って逃げ出したという意味のことを言っていた。

2007年の慰安婦の採用時に強制があったかどうかという論争は慰安婦が自分の意思で就業したかどうかという広義の議論に発散している。もし偽の労働条件を見て就業を決めたことを非自発的と言うのであれば現在手に入る資料からほとんどの慰安婦は非自発的に就業していたことに疑問の余地はない。この制度は女性が本当に自発的に就労するような職業ではないように思われる。